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お母さんのもとを離れられた千菊丸が「周建」と名づけられ、京・安国寺の像外集鑑禅師のもとでお坊さんの修行を始めはったんは六歳の時です。その頃の安国寺には、何人もの童行や行者たちが修行をしておられたようですけど、周建の頭の良さはずば抜けていたらしく、機知に富んだ受け答えと根っからの明るさで、たちまち僧堂内の人気者となっていかはりました。『一休咄』にある、将軍義満を感心させたつい立ての虎を縛る問答や橋を渡るのに、はしを渡らんとまん中を渡って意地の悪い商家の主人をやりこめた話しなどはこの頃に生まれたらしく、今日一休がとんち小僧と呼ばれる由縁やといわれてます。

奇想天外な発想、鋭くもユーモアあふれる問答、大人をもドキッとさせる痛烈な皮肉と批判。これらを思うと一休の反骨魂は、すでに周建の頃にしっかりと心の中に宿しておられたんではないでしょうか。
一躍注目の的となられた周建は、周りから随分もてはやされておられたみたいですけど、当の本人は、そんなことにかかわってるどころではなかったようで、立派なお坊さんになるというお母さんとの約束を果たすことで頭がいっぱいでした。そやから、ある時は講義を聞きに行かれたり、またある時は作詩を学ばれたりと、とにかく学問を身につけようと懸命でした。特に作詩は毎日一首を作るというノルマを自分に課して頑張られたらしく、詩を目にされた禅師から、周建の作る詩は玄人の風格がある、とおほめの言葉があったことが年譜に書かれてます。何とそれは13歳の時のことやというのですから驚きです。


この頃周建は、建仁寺の慕哲竜攀禅師のもとで修学に励んでおられたらしく、その成長はめざましいものがあったようです。けど、周りの様子はというと、学ぶ意欲のある者にとっては最悪の環境でした。当時の僧堂内には、財力や権力を得た大寺の傘の下にいることで修学をなまけ寄ったら家柄や血筋の自慢、出世のことばかりを口にして、呑気に楽しく暮らそうとする修行僧や指導者たちがたむろしてたんです。信じられない有様を目にされた周建は、このままでは禅が滅んでしまう、とおそらく思われたんでしょう、修学を熱心にやらない禅門とその弟子たちへの怒りと憂いと失望を禅師に向かってぶつけはるんです。周建16歳の時です。その時の周建の気持ちが『年譜』には次のように綴られてます。

1409年(応永十六年己丑)
『師16歳、結制の日に秉払の僧が、生まれや血筋家柄のことを喜ばしげにいうのを聞き、思わず耳を掩って法堂を出た。そして二つの偈頌を作り慕哲翁にさし出した。翁はそれを見て言った。今日の叢林の退廃ぶりは、一人でささえることなど出来るものではない。30年後にはお前の主張は必ず実現されるだろう。その時まで辛棒して待ちなさい。』

禅師から、主張を実現するには30年待つよう言われはった周建は、その時何を思われたんやろ。いくらなんでも禅師に反発するなど考えられません。ならば自分を責めるよりなかったでしょう。若さとそれゆえの向こう見ずさを。そして自分に向かって、周りに惑わされんと修行に励むんやと叱りとばさはったに違いない。同時に自分は今、何を思い、何を求めんとあかんのかを、はっきり知られたのではないかと思います。自分だけは家柄を誇ったり、地位や名誉や出世を得ようなどと思わないでおこう。まっすぐに純禅の道を歩もう。そうすることが、いずれの日にか退廃した今の禅林を正しい姿へ立ち返らせることになるのやと。