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南北朝時代(1334-1392)の開山。応永元年(1467)三代目住持法王の時、法難を逃れた蓮如が身を寄せ、同寺に本願寺を置き再興の拠点とした。蓮如ゆかりの遺品が数多く所蔵されている。十一代住持明式は芭蕉の高弟で千那と号したところから、同寺は千那寺とも呼ばれる。芭蕉も再三訪れ句を残している。
大津市本堅田1丁目22-30
南北朝時代(1334-1392)の開山。応永元年(1467)三代目住持法王の時、法難を逃れた蓮如が身を寄せ、同寺に本願寺を置き再興の拠点とした。蓮如ゆかりの遺品が数多く所蔵されている。十一代住持明式は芭蕉の高弟で千那と号したところから、同寺は千那寺とも呼ばれる。芭蕉も再三訪れ句を残している。
大津市本堅田1丁目22-30
長徳年間(995年頃)比叡山横川の僧源信が湖上の安全と衆生済度を祈願し建立。「堅田落雁」として近江八景の一に数えられる名勝。聖観音座像は平安時代の作で重要文化財。芭蕉の句碑がある。
大津市本堅田1丁目16-18
長徳年間(995年頃)比叡山横川の僧源信が湖上の安全と衆生済度を祈願し建立。「堅田落雁」として近江八景の一に数えられる名勝。聖観音座像は平安時代の作で重要文化財。芭蕉の句碑がある。
大津市本堅田1丁目16-18
蓮如上人とのゆかりが深く、真筆の名号・消息等の遺品や伝説が残されている。中でも宗祖の御真影を三井寺から取り戻すために自らの首を差し出したという「堅田源平衛親子」の物語は有名で、源平衛の頭蓋骨が今も安置されている。
大津市本堅田1丁目22-20
蓮如上人とのゆかりが深く、真筆の名号・消息等の遺品や伝説が残されている。中でも宗祖の御真影を三井寺から取り戻すために自らの首を差し出したという「堅田源平衛親子」の物語は有名で、源平衛の頭蓋骨が今も安置されている。
大津市本堅田1丁目22-20
応永年間(1394~1428)一休の師華叟宗曇が開いた。一休が22歳から十余年ぶわたる修行に励んだ。当時は祥瑞庵といい、一休も宗純と称していた。一休という道号を与えられたのは25歳、岸辺の小舟で開悟に至ったのは27歳の時。開山堂には師と一休の木造が安置されている。後年、芭蕉も訪れ、句を詠んだ。
大津市本堅田1丁目27-20
応永年間(1394~1428)一休の師華叟宗曇が開いた。一休が22歳から十余年ぶわたる修行に励んだ。当時は祥瑞庵といい、一休も宗純と称していた。一休という道号を与えられたのは25歳、岸辺の小舟で開悟に至ったのは27歳の時。開山堂には師と一休の木造が安置されている。後年、芭蕉も訪れ、句を詠んだ。
大津市本堅田1丁目27-20
中世・堅田の指導的立場にあった殿原衆党首の屋敷。邸内の湖東を借景とした庭園「天然図画亭」は千宗旦の高弟で茶人の藤村粛軒と堅田の豪土北村幽安によって築かれた。
大津市本堅田2丁目12-5
中世・堅田の指導的立場にあった殿原衆党首の屋敷。邸内の湖東を借景とした庭園「天然図画亭」は千宗旦の高弟で茶人の藤村粛軒と堅田の豪土北村幽安によって築かれた。
大津市本堅田2丁目12-5
南北朝時代、戦に敗れた新田義貞は愛する内侍を堅田に匿い、再会を誓って北陸へ落ちて行くが、3年後世を去る。それを聞いた内侍は絶望のあまり湖に身を投じ後を追う。後日、その事を知った今堅田の人々は内侍の霊をねんごろに弔ったという。その石塚が野上神社に残されている。
大津市今堅田2丁目32
南北朝時代、戦に敗れた新田義貞は愛する内侍を堅田に匿い、再会を誓って北陸へ落ちて行くが、3年後世を去る。それを聞いた内侍は絶望のあまり湖に身を投じ後を追う。後日、その事を知った今堅田の人々は内侍の霊をねんごろに弔ったという。その石塚が野上神社に残されている。
大津市今堅田2丁目32
かつての湖上関跡に建つ木造の灯台。明治8年(1875)に建てられた。
大津市今堅田1丁目
かつての湖上関跡に建つ木造の灯台。明治8年(1875)に建てられた。
大津市今堅田1丁目
中世・琵琶湖に君臨した堅田。その歴史と文化を紹介。また、ゆかりの深い人物や文学作品コーナー、民具等の展示室、土産コーナーもあり、堅田郷土史がわかる唯一のスポット。
大津市本堅田1丁目21-27
中世・琵琶湖に君臨した堅田。その歴史と文化を紹介。また、ゆかりの深い人物や文学作品コーナー、民具等の展示室、土産コーナーもあり、堅田郷土史がわかる唯一のスポット。
大津市本堅田1丁目21-27
琵琶湖大橋の西詰め。レストランや土産コーナー、ミーティングルーム、テラスなどがあり、誰もが気軽に立ち寄れる快適スポット。
大津市今堅田三丁目1-1
琵琶湖大橋の西詰め。レストランや土産コーナー、ミーティングルーム、テラスなどがあり、誰もが気軽に立ち寄れる快適スポット。
大津市今堅田三丁目1-1
琵琶湖大橋の北。遠浅の美しい白砂青松の浜で、比良山系を背に湖上はるかに近江富士(三上山)を望む風情は正に古歌の世界。詩情あふれる浜はまた、琵琶湖の中でも屈指の水泳場、マリンスポーツゾーン。
シーズンともなればビーチバカンスを楽しむ多くの人々で賑う。
大津市今堅田3
琵琶湖大橋の北。遠浅の美しい白砂青松の浜で、比良山系を背に湖上はるかに近江富士(三上山)を望む風情は正に古歌の世界。詩情あふれる浜はまた、琵琶湖の中でも屈指の水泳場、マリンスポーツゾーン。
シーズンともなればビーチバカンスを楽しむ多くの人々で賑う。
大津市今堅田3
もとは曼陀羅山の麓にあり、天台宗三千坊の一つであったが、長祿4年(1460)蓮如上人に帰衣し改宗した。幕末、志士と共に倒幕を企てた三宮善胤(さんのみやよしたね)は同寺第13代円海住持の長男で明治時代、外交等を歴任し、大津事件の際には、ロシアとの間に立ち日本の危機を救った。
大津市真野5丁目17-36
もとは曼陀羅山の麓にあり、天台宗三千坊の一つであったが、長祿4年(1460)蓮如上人に帰衣し改宗した。幕末、志士と共に倒幕を企てた三宮善胤(さんのみやよしたね)は同寺第13代円海住持の長男で明治時代、外交等を歴任し、大津事件の際には、ロシアとの間に立ち日本の危機を救った。
大津市真野5丁目17-36
上の神田神社と同じく、真野氏とのゆかりが深い。例年正月17日に氏子が豊作祈願の松明をかざして参拝する「さんやれ祭」は有名。さんやれとは「幸あれ」という意味だと伝わる。
大津市真野普門町942
上の神田神社と同じく、真野氏とのゆかりが深い。例年正月17日に氏子が豊作祈願の松明をかざして参拝する「さんやれ祭」は有名。さんやれとは「幸あれ」という意味だと伝わる。
大津市真野普門町942
延喜式神名帳にある式内社で、豪族真野氏とのゆかりが深い。三間社流造・桧皮葺の本殿は重要文化財。
大津市真野4-7-2
延喜式神名帳にある式内社で、豪族真野氏とのゆかりが深い。三間社流造・桧皮葺の本殿は重要文化財。
大津市真野4-7-2
国道161号から西へ約400m。かつて入江があったとされる地点を示す。古代・中世の頃の入江がいかに深く広大であったかがうかがい知れる。
大津市真野4
国道161号から西へ約400m。かつて入江があったとされる地点を示す。古代・中世の頃の入江がいかに深く広大であったかがうかがい知れる。
大津市真野4
古墳時代中期から後期に築かれた。その数167基を数え、その多くは横穴式石室をもつ円墳。真野氏のものとも、大友氏のものともいわれる。
大津市真野谷口町
古墳時代中期から後期に築かれた。その数167基を数え、その多くは横穴式石室をもつ円墳。真野氏のものとも、大友氏のものともいわれる。
大津市真野谷口町
堅田丘陵にある史跡春日山古墳群に隣接した公園で、公園内にも多くの古墳や溜池がある。里山の自然環境や古墳群などの保全と活用を図りながら丘陵地ならではの豊かな自然を活かした環境学習や里山保全活動の実践の場として、さらに県民の憩いとレクリエーションの場となる公園とする
大津市真野谷口町
堅田丘陵にある史跡春日山古墳群に隣接した公園で、公園内にも多くの古墳や溜池がある。里山の自然環境や古墳群などの保全と活用を図りながら丘陵地ならではの豊かな自然を活かした環境学習や里山保全活動の実践の場として、さらに県民の憩いとレクリエーションの場となる公園とする
大津市真野谷口町
仰木一帯の鎮守社。創建年代は定かではないが、延喜式神名帳に名を連ねる。平安時代、武将源満仲の霊を祀った。満仲は摂津国(現在の兵庫県)の人で、清和源氏の磯を固めた武将。付近には満仲隠棲の地と伝わる御所の山など、ゆかりの史跡がある。例年5月3日に行われる仰木祭は泥田祭とも呼ばれる有名。
大津市仰木4-38-55
仰木一帯の鎮守社。創建年代は定かではないが、延喜式神名帳に名を連ねる。平安時代、武将源満仲の霊を祀った。満仲は摂津国(現在の兵庫県)の人で、清和源氏の磯を固めた武将。付近には満仲隠棲の地と伝わる御所の山など、ゆかりの史跡がある。例年5月3日に行われる仰木祭は泥田祭とも呼ばれる有名。
大津市仰木4-38-55
小椋神社に伝わる祭礼のための太鼓で、ショウ的なアレンジは全くないが、大勢が横向きの太鼓を腰を落として打つ様子は迫力満点。特に近年、地元の子どもたちによる演奏は人気がある。
大津市仰木4丁目2-50
小椋神社に伝わる祭礼のための太鼓で、ショウ的なアレンジは全くないが、大勢が横向きの太鼓を腰を落として打つ様子は迫力満点。特に近年、地元の子どもたちによる演奏は人気がある。
大津市仰木4丁目2-50
仰木から横川、西塔、東塔を経て山頂へ通じる。昭和41年(1966)に開通。琵琶湖はもとより比良山系、湖東平野の絶景が望める。
大津市仰木2丁目
仰木から横川、西塔、東塔を経て山頂へ通じる。昭和41年(1966)に開通。琵琶湖はもとより比良山系、湖東平野の絶景が望める。
大津市仰木2丁目
この地に生まれ、桓武天皇の後宮となった旅子は、大伴親王(淳和天皇)出産後2年で世を去った。死におよんで旅子が「故郷にある梛(なぎ)の木のたもとに埋めてほしい」との遺言を残したところから、再び故郷に帰ってきたとして神社の名がついたという。以来、無事帰還を願う社として人々の参拝するところとなった。
大津市伊香立途中町518
この地に生まれ、桓武天皇の後宮となった旅子は、大伴親王(淳和天皇)出産後2年で世を去った。死におよんで旅子が「故郷にある梛(なぎ)の木のたもとに埋めてほしい」との遺言を残したところから、再び故郷に帰ってきたとして神社の名がついたという。以来、無事帰還を願う社として人々の参拝するところとなった。
大津市伊香立途中町518
天智天皇6年(667)大津京遷都の際、随行してきた平群飛鳥真人(へぐりのあすかのまひと)が当地を賜り、天大吉備諸進命(あめのおおきびのもろすみのみこと)を勧請し祠ったのが始まり。後、後裔により、七柱の神が加えられ、八柱としたのが神社の名の起こり。
大津市伊香立下在地町1316
天智天皇6年(667)大津京遷都の際、随行してきた平群飛鳥真人(へぐりのあすかのまひと)が当地を賜り、天大吉備諸進命(あめのおおきびのもろすみのみこと)を勧請し祠ったのが始まり。後、後裔により、七柱の神が加えられ、八柱としたのが神社の名の起こり。
大津市伊香立下在地町1316
恩院周誉上人が応仁の乱を避け、一時寺基を移し、建立。例年9月第三日曜日には、鎌倉時代の絹本著色六道絵(重要文化財)などの寺宝が公開される。
大津市伊香立下在地町1160
恩院周誉上人が応仁の乱を避け、一時寺基を移し、建立。例年9月第三日曜日には、鎌倉時代の絹本著色六道絵(重要文化財)などの寺宝が公開される。
大津市伊香立下在地町1160
江戸時代の文化元年(1804)龍家の祖先により、約40万年s前の東洋象の化石が発見された所。(現在、国立博物館にて保存)レプリカが北在地にあるリサイクルプラザに展示されている。
大津市伊香立南庄町
江戸時代の文化元年(1804)龍家の祖先により、約40万年s前の東洋象の化石が発見された所。(現在、国立博物館にて保存)レプリカが北在地にあるリサイクルプラザに展示されている。
大津市伊香立南庄町
嵯峨天皇第十二皇子源融公(822-895)が当地に閑居を構えた時、一面の鏡を埋めた。後、伊香立の荘官が鏡を掘り出し、神爾とし創建した。
大津市伊香立南庄町1846
嵯峨天皇第十二皇子源融公(822-895)が当地に閑居を構えた時、一面の鏡を埋めた。後、伊香立の荘官が鏡を掘り出し、神爾とし創建した。
大津市伊香立南庄町1846
伊香立の昔懐かしい民家での生活の様子や農具・生活道具などが立体的に展示され、山間に営まれてきた農村の暮らしぶりを見ることが出来る。
大津市伊香立下在地町1223-1
伊香立の昔懐かしい民家での生活の様子や農具・生活道具などが立体的に展示され、山間に営まれてきた農村の暮らしぶりを見ることが出来る。
大津市伊香立下在地町1223-1
相応和尚が不動明王を感得、木造を納めたのが始まり。以来、天台回峰行の道場とされた。霊験を求めて時の貴人や武将等、多くの人々が参詣した。室町時代には足利義尚や母戸富子も訪れ、名を記した木礼を残している。例年7月18日に行なわれる勇壮な「太鼓廻し」は有名。
大津市葛川坊村町155
相応和尚が不動明王を感得、木造を納めたのが始まり。以来、天台回峰行の道場とされた。霊験を求めて時の貴人や武将等、多くの人々が参詣した。室町時代には足利義尚や母戸富子も訪れ、名を記した木礼を残している。例年7月18日に行なわれる勇壮な「太鼓廻し」は有名。
大津市葛川坊村町155
明王院鎮守社。室町期の本殿は幣殿とともに重要文化財。
大津市葛川坊村町237-37
明王院鎮守社。室町期の本殿は幣殿とともに重要文化財。
大津市葛川坊村町237-37
バンガローやテント、屋根付きの炊飯場などの設備はもとより、テニスコートも完備。キャンプの醍醐味が満喫できる。子どもたちのための少年自然の家や葛川の古い萱葺きの家なども併設され、山村の暮らしが体感できる。
大津市大津市葛川坊村町116
バンガローやテント、屋根付きの炊飯場などの設備はもとより、テニスコートも完備。キャンプの醍醐味が満喫できる。子どもたちのための少年自然の家や葛川の古い萱葺きの家なども併設され、山村の暮らしが体感できる。
大津市大津市葛川坊村町116