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先ず、時代の様子ですけど、一休が生まれた時(1394年・応永一)、国は南朝と北朝とに別れてました。その原因はというと、あらましこうです。1333年(元弘三)に足利尊氏(1305年、永仁十三〜1358年、正平十三・延文三)や新田義貞の活躍で鎌倉幕府が倒されて後醍醐天皇によって新しい政治(建武の新政)が京の都ではじまったんですけど、その際、手柄のあった尊氏をはじめ武士達には満足な恩賞が与えられませんでした。それを不満とした尊氏は謀反を起こすんですが失敗、九州へおっぱらわれるものの、態勢をたてなおして再び都へ攻めのぼって来たんです。それであわをくった後醍醐天皇は吉野(奈良県南部)へ逃れてしまわれた。御所を制圧した尊氏は、すぐさま光明天皇を即位させ、自分は征夷大将軍となって京の都に室町幕府(北朝)を開いたんです。一方、後醍醐天皇も、自分の方こそが一国(南朝)の天皇であると主張して吉野で政治を行わはった。これが南北朝のはじまりです(1336年、延元一・建武三)。この後南朝方は、幾度となく尊氏軍に戦をしかけるんですけど勝利には結びつかず、逆に勢いは衰えていくばっかりで、3年後には後醍醐天皇も亡くなってしまわはりました。それでも双方は一歩も譲らず、延々とにらみ合いを続けます。双方の合一が成ったのは後醍醐天皇が亡くなってから半世紀余りも経った1392年(元中八・明徳三)のことでした。


一休は、この南北朝合一の2年後に生まれはったわけですけど、その時、天皇やったのが北朝方の後小松の帝、つまり一休のお父さんで、政権を握って室町幕府を確立したのが足利三代将軍義満でした。この足利氏のもとでの政治は、一休が88歳で世を去ってもまだしばらくは続くわけです。その間の国の様子はというと、南朝方や鎌倉府との戦闘をはじめ、守護大名同士の争いや国人による動乱、農民一揆などが多発、加えて水害や干ばつによる飢饉、疫病などがくり返し発生してたくさんの死者も出ました。そんな民衆の悲惨な状況を横目に将軍や上層の武士・貴族・僧侶たちというと、いわゆる室町文化と呼ばれる立派な山荘や寺院・庭園などを作ったり、茶の湯や生け花・能楽などに興じるなどして上流生活を謳歌してたんです。金閣寺や銀閣寺はこの頃に建てられたもんです。また仏教の方では、難行道といわれ絶対自力を唱えて厳しい座禅によってみずから悟りをひらく禅宗が、「五山十刹」の格付けのもとに武家や公家の崇拝を受けて隆盛を誇ってました。

権力を持った豊かな者だけが生きられて貧しい者は死んでいく。民衆はそんな非情な事態にやるせない思いでいっぱいでした。そんな中、権力にあぐらをかくだけの政治に対して地方の不満が爆発します。守護の代官や国人、農民たちの間から反抗の烽火が上ったんです。それは、またたくまに巨大な渦となって国中を巻き込んで行きました。もはや誰にも止められなくなったレジスタンスの渦は、一休の晩年に起こる応仁の乱を経て、やがて下剋上、つまり身分の下の者が身分の上の者を倒してその立場を奪う時代へと向かうのです。

政治の形も人の意識も大きく変わろうとする時代、争乱にあけくれ明日をも知れない時代、正しいもの、信じられるものを必死に探し求めた時代、それが一休の生きた時代でした。