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山号を太平山と称し、本尊は釈迦如来です。1406年(応永十三)華叟宗曇和尚が開かれました。寺地はもともと田でしたけど、玉泉庵(鎌倉幕府が滅ぶ直前頃から堅田にあったという)の住職の覃澡という人が1380年(康暦二)に田を買って、聖瑞庵として寺基を固めはったのが最初やと伝わります。その後、1391年(明徳二)になって一切が原素というお坊さんへ譲られ、さらに15年後、原素から華叟和尚へ寄進されたということです。(本福寺史)
堀に囲まれた境内には、華叟和尚と一休の木像が語らうかのように安置された開山堂や枯山水の庭園を配した鎌倉期の禅寺の建築様式を伝える方丈があります。但しこの方丈は、1919年(大正八)の大火で焼失、1933年(昭和八)に再建されたもんです。けどその際、以前の姿そのままに建てられ、今もなお禅寺独特の凛とした趣と風格を止めてます。1690年(元禄三)、松尾芭蕉が祥瑞寺を訪ねてます。おそらく一休の境涯にひかれてではなかったでしょうか、「朝茶飲む僧しずかなり菊の花」の句を呈してます。

話をもとにもどしまして、一休が目指す当時の堅田の様子はというと、平安時代末期の1090年(寛治四)に賀茂御祖神社(下鴨神社)の御厨がおかれた時、その見返りとして獲得した湖上の権利、すなわち琵琶湖全域での漁業権、航行する船を取り締まる関務権、船を安全に運行させる上乗権、この三つの権利を守り通して来ていて、それで得た莫大な財力を背景に堅田千軒と称される琵琶湖最大の町が築かれてました。

それを統治していたのは殿原衆と称される人々でしたけど、一方で農民や漁師、手工業者、商人などで組織された全人衆と称する人々の勢いも増して来ていて、宗純が堅田へ足を踏み入れた頃は、殿原衆、全人衆両者あいまって相当繁栄してたと伝わります。そのへんのことを水上勉氏は著書の中で『当時日本国でもっとも新しい息吹のあった堅田』と述べておられます。


初めて堅田の地に姿を現された宗純は、まっすぐに祥瑞庵へ向かわれました。『年譜』はその時の様子を次のように伝えています。(同年、蓮如が誕生する。)

1415年(応永廿二年乙未)
『師廿二歳初めて江の堅田に赴き、謁を華叟に求む。叟、門を閉じて峻拒す。師、誓って曰く、吾一謁を得ずんば、死を此に決せんと。露眠草宿し、少しも屈せず、夜は虚舟に投じて、旦に庵前に到る。』

つまり『1415年 師22歳。初めて江州の堅田に行き、華叟和尚に逢って入門しようとしたが、華叟は門を閉じて固くこれを拒んだ。師は心の中で誓った。「俺がもし華叟和尚にまみえることが出来なければ死んでもかまわぬ」と。野宿せねばならぬ日が続いたが、少しもへこたれなかった。夜は漁師がつなぎ止めた空舟の上で寝て、朝は必ず庵の門前で坐り込んだ。』

年譜からは、参禅される宗純の並々ならぬ決意のほどがひしひしと伝わって来ます。けど、入門はすぐにとはいかなかったようです。それでも坐り続けて四、五日経った日の早朝、門が開かれ華叟和尚が出てこられました。が、それは法事の供養に行かれるためで、宗純を迎え入れるためではありませんでした。それどころか華叟和尚は「先日やって来た行者らしき者がまだここにおる。よいから水をぶっかけ、棒で叩いて今すぐおいだしなされ」とお伴の者に言い残して出ていかれました。

華叟和尚が戻ってこられたのは、比叡の峰に陽が沈みかけようとする頃でしたけど、宗純は依然として庵前に伏したままでした。その姿を見られた華叟和尚は「こやつ、ただものではない」と思われたんか、ついに宗純の入門を許さはるんでした。

ここで、華叟宗曇和尚(1352年・文和一〜1428年・正長一)についてふれておきます。生まれられたのは播磨国揖西郡(兵庫県龍野市あたり)で、出家以前の姓は藤原氏です。8歳で上京して徹翁義亨に師事。十四歳で出家されました。その後、18歳から約五年間河内国(大阪府)の雪扇保盛に仕えられてから大徳寺へ戻られ、徳禅寺の言外宗忠へ参禅、後その法を嗣がれました。言外和尚が亡くなられてからは、近江国浅井郡河毛の安脇(同地名は『年譜』追記による。現在、安脇という地名は東浅井郡湖北町山脇にある小字名で河毛にはない。)にあった禅興庵で俗世を避けておられましたが、10年ほどして堅田へおもむかれ祥瑞庵を開かれました。

高潔で厳正な修行によって鍛え上げて来られた和尚は、無欲清貧を貫く当代随一の禅僧と謳われ、謙扇和尚と同じように華美な都の禅寺を嫌われる方でした。堅田に祥瑞庵を開かれたんもそういった理由からやと言われてます。また、大徳寺の住持にと何度も招かれはったようですけど、一切応じられなかったと伝えられてます。


入門の許しをもらわれた宗純は、いよいよ修行を始めはるわけですけど、華叟和尚の教えは、南浦紹明(大応国師)、宗峰妙超(大燈国師)徹翁義亨、言外宗忠と、厳格な法脈を嗣ぐだけに、その内容はことのほか厳しいもんやったらしく、謙翁和尚をしのぐものだったと伝えられています。

当時、祥瑞庵の修行がどんなもんやったか、詳しいことは分かりかねますが、聞くところでは、おそらく今日と同じように、開静に始まって、朝課、梅湯茶礼、粥座、独参、作努、托鉢、斎座、座禅、経行、薬石、検単、そして開枕後の夜坐などなど、様々な日課を通して悟りへの修行が行われていたと言うことです。さらに、当時の宗純には和尚との以心伝心の関係を妬む先輩たちのいやがらせにうち勝つことや、60歳半ばの高齢で腰痛に苦しむ和尚の介護などもしなければならなかったようです。『年譜』に『華叟 は腰痛で起きられず、いつも腰かけに独坐し、大小便には便器を用い、門下の雲衲は順番にその世話をした。皆へらなどを用いて拭ったが、師のみ手指でもってこれを拭い清めた。師はいう。「自分のお師匠さんの汚れをどうして嫌うことがあろうか」。皆はそれぞれ恥ずかしく思った』。また、『師はある一人の漁師と仲好くしていたが、毎夜彼のあばら屋を借りて、夜明けまで夜坐に励んだ。その漁師は師が餓えと寒さに耐えて修行する姿を見て哀れみ、いつも鉢に食物を蓄えておいて食べさせた。彼の妻は意地悪で、鍋や釜をかきならしては師の夜坐の邪魔をした』などの話も載せられてます。近所のおかみさんまでもが修行に加わってくるとは、さすがの宗純もびっくりされたことやろと思います。

そんな修行の中でも、もっとも大変やったのは、食べることやったようで、『年譜』の23歳の時の記述には『華叟の道場は大変枯淡で、食事も一日二回とれなかったほどである。』と書かれてます。そのために宗純は、食いぶちを得ようと、香包や雛人形の衣装などをこしらえては、せっせと京の都へ売りに出かけられていたということです。針仕事ができる手先の器用さは、おそらく子どもの頃の躾、あるいは一人で何でもしなくてはならなかったので、工夫をするというところから身につけておられたんではないかと思いますが、色、柄、形まで整えられていたのかと思うと、デザインセンスもなかなかのもんを持っておられたんやなと感心します。

都へ出られるのには、篠峯越(仰木越)を行かれたと伝わります。丹精込めてこしらえた品もんを大事そうに抱えながら、宗純は何を考えて急な山道を昇り降りされてたんやろ。お母さんのことやろか、いや謙翁和尚のことかも、いや違う、童行の頃のことやで、いや大方は、木々を渡る風の音や山鳥の声を聞きながら、頭上に舞う蝶と戯れてはったんやで。さもありなん、なにせすでに印可状を受けはるほどのお坊さんや、ちょっとはゆっくりもしておられたはずや、なんて思うのは凡骨者で、おそらくその頃の宗純は、昔を懐かしむような気分にひたることも、自然が奏でる妙なる音や四季の輝きを愛でることも出来なかった、というより、自身の心をぐらつかせ、大切な修行の時間を奪おうとする周りの何ものも、わざと拒否されたんと違うやろかと思います。それは、さらに高い境地へ向かうために全身全霊を修行に傾けたいと考えておられた時期やと思うからです。

時を惜しみ、ひたすら参禅弁道に励む日々。一方で食べるために山を越えて商いまでもしなくてはならない宗純の日常は過酷でした。けど、日々に起こる様々な出来事は、純禅の境地へ至ろうとする宗純の切々たる思いを、なおさらかきたてるものに他ならなかったんではないでしょうか。やがて、宗純に新たなる転機が訪れます。