今の日本で一番名が通ってるお坊さんはというたら、年齢層の広さから考えても、やっぱり一休さんが一番やろなと思います。そしたら、昔はどうやったんかというと、
昔も今と同じやったらしく、一休さんの ことは国中に知れわたってたようで、江戸時代のはじめに書かれた『一休咄』という本には、「犬うつ童、
牛つかむ男までよく知申候」と出てるようです。そんな有名な一休さんが、嬉しいことに22歳から
あしかけ13年、わが町堅田で暮らしておられたんです。
というても、ただのほほんと暮らしておられたんと違います。
堅田での一休さんは、天皇さんやったお父さん、そのお父さんを取り巻く北朝方の女官たちの企みによって
館を追われ、嵯峨の奥里で自分を産んでくれはったお母さん、両親それぞれへの思いを胸の奥に
しまわれて、純禅の境地を求められて修行の日々を送っておられたんです。
その修行たるや、それはもう厳しいもんやったと言われてます。
けど、一休さんは決してへこたれたりしはらなんだ。
それどころか、自分から進んで厳しい修行に身を投じて、来る日も来る日も信じる道を真直ぐに歩かれ、
ついには悟りの境地を開かれたと伝わってます。
一休という名前も堅田でさずかられたもんです。
人は一休さんのことを反骨の禅僧とか、破戒と風狂の禅僧とか、宗教界の異端児などと呼んだりします
けどその基盤は、命をかけて挑まれた堅田での修行の中で固められたんやないかと思います。
ということは、一休という名前がわが国に初めて登場したのが堅田であって、
また悟りを開いて禅の世界はもとより、世の中の様々な考え方や形式に反骨を示すお坊さんを生んだのも
堅田である、ということになると、堅田は、まさに一休さん誕生の地ということになります。
なんて分かったようなことをいうてますけど、正直なとこは、一休さんを理解するなんてことは出来かねます。理由は、何事をするにも清々しく切々たるところがあるかと思えば、時にお坊さんとは思えん型破りな行動に走ったり、権力におごる者やそれにへつらい悪さをする者に向かって、鋭い批判の言葉を浴びせかける。
かと思えば、70歳をはるかに越しているというのに、若い者もたじろぐほどの情熱を女性に捧げるなど、
凡骨者には到底理解のできない頭脳と肉体と行動力を持った怪物やからです。
けど、これだけは間違いないと思えることがあります。
その一つは、一休さんにとっての堅田時代は、88年という長い人生の中のターニングポイント(転換点)やったということと、も一つは当時、一休さんが自分の若さを鍛えるために味あわれた苦悩に、今を生きる
私らが少しでも思いを馳せることが出来たら、世の中で起こる様々な出来事に対して、また違った見方や
考え方が生まれるのと違うやろかということです。
今の世の中「とんちの一休さんは知ってるけど、ほんまはどんなお坊さんやったんやろ」という方が
多くおられると聞きます。それでもよろしいかとは思いますけど、どうせなら、是非いっぺん一休さん
誕生の地・堅田へ来ていただいて、一休さんも時には癒され、また一体となられた湖畔の自然を肌で
感じていただきながら苦行の跡を訪ねて欲しい。
それが一休さんを知る手がかりになるかもしれん、また、突拍子もない行動や痛烈な言葉に隠された
本当の意味が分かるかもしれん、さらには、生意気いうようですけど、とんち小僧みたいに、いつもユーモア
とインテリジェンスを忘れへん人生、媚たりへつろうたりせんと夢に向こうて我が道を行く「一休さん的」な
生き方も、大切やなと感じてもらえんのと違うやろか、なんて思てます。
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