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ある日、盲目の琵琶法師が祥瑞庵へやって来て、みんなの前で平家物語「祇王失寵」の段を語った時のことでした。「祇王失寵」の物語というのはあらましこうです。「平家にあらずんば人にあらずの時代。白拍子の祇王は、妹の祇女、母の刀自とともに平清盛の寵愛をうけ、西八条の館で幸せに暮らしていた。3歳ほど過ぎた頃、都に仏と呼ぶ白拍子が現れ、清盛に推参しようと館へ押しかけるが、清盛はすげのう仏を追い返す。そのことを耳にした祇王は、自分と同じ白拍子の仏を哀れに思い、館へ招き入れ、清盛の前で今様を歌わせてやる。
すると清盛は、たちまち仏の美声に魅せられてしまい、それどころか心までも仏に移し、あげくには祇王を遠ざける始末であった。そこで愛の無常を知った祇王は、室の障子に「もえいづるも枯るるもおなじ野べの草 いづれか秋にあはではつべき」と形見の歌を書き綴り、親子三人出家して館を後に嵯峨の奥の山里に庵を結んでしまう。

季節が変わったある日の夕暮れ。親子が念仏していると柴の庵の戸を叩く者があった。祇王が立って竹の編戸を開けると、そこに佇んでいたのは、出家姿の仏であった。祇王が館を退く折りに、書き残した形見の歌を初めて目にして、我が身だけが一時の栄華に心おごり、参上を許してくれた祇王の温情に、何と背いた行いをしたことかと悔いあらためて、いつかは同じ運命をたどる身の上、ならば余生は親子と一緒に念仏をと、密かに館を抜け出して来たのであった。その後、四人は念仏三昧の暮らしを送り、ついには往生の素懐をとげたという。

ところで、何故ここで平家物語が登場したかというと、一休はこの語りを聞かれて公案を解かれたというのです。『年譜』に『師25歳。ある日盲目の琵琶法師が、平家物語の祇王失寵の段を語るのを聞いていた時、洞山三頓の棒の公案で悟るところがあった』とあります。

公案というのは、経文や語録から選んだ話を使って、悟りへ向かう考えを興させようとする手段の一つで、その数は1700もあるらしく公案を解くということは修行僧にとって、禅の境地を知ることであり、大変意味深いことです。宗純はその頃、洞山三頓の棒という公案を華叟和尚から与えられてはったんです。

ついでに洞山三頓の棒という公案の内容をおおまかですけど紹介しますと、洞山守初が若い頃、師の雲門分堰から「どこから来たか、どこで過ごしたか」などと問われたので、これまでの行脚のあとをこまごま答えると、雲門は「このうつけ者が。三頓の棒をくれてやるところだが勘弁してやる、即刻立ち去れ。」と叱らはった。何がなんだか分からない洞山は、再び雲門に参じ、自分の答えのどこが悪かったのかを問いなおすと、またもや大声で叱りつけられはった。けどその瞬間、洞山は師が何を求めようとされていたのかが分かり、初めて悟ることが出来たというのです。
そして、悟りというものは師や周りからもらえるものではなくて、自分への問いかけの中から見つけ出しつかむもの。そのためには、心の中のこだわりを一切捨て切り、爽やかな心に立ち返りなさい、それが分からない者は棒で叩くよりない、というのがこの公案の教えるところやということです。

話を先へ戻しますけど、一休は、「祇王失寵」を聞かれてどうして公案を解くことが出来たのかさっぱりわかりません。図書や公案の意味などから推察したら次のようなことでしょうか。


琵琶法師の哀切に満ちた語りを聞き終えた宗純は泣いておられた。祇王と同じように館を追われて、独り嵯峨で一生を送ることになった不幸せなお母さんが思い出されてでした。それでも宗純は夜坐へ向かい、目を閉じ耳を澄まし仏の声を聞こうとしはるんです。けど宗純の耳に聞こえてくるのはやっぱりお母さんの忍び泣く声でした。止めどもなく頬をつたう涙を拭おうともせず肩を震わせ泣くその時の宗純は、修行僧ではなく世の無常とお母さんへの思慕に泣く普通の子でした。けどやがて、湖東の空が明るくなりかけようとする頃でした。

「おい宗純。まだお前は泣くのか。」

「何や見てたんか。忘れてくれ。」

「まだ、お母さんから離れんでおこうと思てるのか。」

「思てない。母も俺もいつかは死ぬ。」

「まだ、自分の居場所を探そうとしているのか。」

「いいや。仏道に止まるところなどない。俺は、風、雲、水みたいに流れるだけや。」

「まだ、偉い坊主になろうと思てるのか。」

「思てない。俺は何だってええ。ただ自由に生きたいだけや。」

「ならばどうなんだ。」

「祇王や仏は栄華を捨て去り、ついに宿願を果した。それに俺は今、気がついた。こだわりを捨て去らない限り、神も仏も解りっこないってことをな。」

涙の中に無常と定離を見て、公案の真理を解かれた宗純は、華叟和尚に独参し、こだわりの塵ひとつとして無い心の中を述べられ、今の自身の境地を「有漏地より無漏地へ帰る一休み 雨ふらば降れ風ふかば吹け」と詠まれます。有漏地というのは、煩悩(人間の欲望)のある境地のことで、無漏地は欲に惑わされない境地のことです。一休は、二つの間のわずかな境地に身を置いて、さあこれからが正念場、無漏地へ向かうまで一休みだと、豪快に言ってのけられたのです。明くる日宗純は、独自の悟りの境地を見い出したことを讃えて華叟和尚から書をもらわれます。その書には墨跡も鮮やかに「一休」の二文字が大書きされてました。一休という名前がこの世に初めて登場したんです。それは、1418年(応永二十五)宗純25歳の時のことです。