一休は、禅門はもとより巷の間でも華叟和尚の考えを嗣ぐ純禅の僧として広く知れわたる存在になっていかれました。おそらく一休の講義をうけたいと願う人も相当おられたことやろなと思います。
ところで、師の華叟和尚のことですけど、一休が帝と初めて会われた頃には、すでに湖北塩津の高源院というところに移っておられたようでそのわけは、命もそう長くはない病の体、いつまでも祥瑞庵で臥せていてもわずらわしい、それなら昔住んでいた心の落ち着く湖北で死を待とうと考えられたのでは、ということらしいです。けど本当のとこは、一休という弟子が正しい禅を後世に嗣いでくれる、
後はまかそうという安心感か、それとも僧堂内で法嗣風を吹かす養叟(養叟宗頤)を嫌っておられたさかい、そんな弟子の介護をうけんのがわずらわしいわい、と考えられたんと違うやろかと思たりします。
実は一休も華叟和尚と同じで、華美な禅に憧れるこの兄弟子とは反りがあわへんかった(のち一休は「自戒集」の中で大徳寺を嗣いだ養叟を激しく批判する)ようで、華叟和尚が塩津へ行かれてからは、祥瑞庵にはべったりとはおられず、しばしば京の方へ行かれていたようです。
そんな一休に華叟和尚が亡くなられたという知らせが届いたのは、初めてお父さんと会われた翌年の事でした。それはまた、一休が堅田と別れを告げられる時でもあったんです。『年譜』には次のように書かれてます。
1428年(後花園天皇 正長元年 戊申) 師35歳。
『6月27日、華叟先師がなくなった。その知らせを聞き、あわてて成子をつれて堅田に行き葬儀をし、一週間して弟子達が散会したので師もまた京に帰った。』
華叟和尚が塩津に移っておられたことは先にも書きました。それやったら弟子として枕元へ参じるのが本当やと思いますけど、一休が塩津へ行かれたことを著わす資料は見当たりません。あるのは年譜の「堅田に行き葬儀をした」ということだけです。それからすると、葬儀は華叟和尚の跡を仕切っていた養叟によって塩津ではなく堅田の祥瑞庵でいとなまれることに決められていたので、いたしかたなくそれに列席されたということではないかといわれてます。「もし華叟和尚にお目どおりが出来なければ死んでもかまわぬ」と決心して、一休が祥瑞庵へ参禅されたのは22歳の時でした。以来35歳となった今の今まで、純禅に生きるあらゆる力をさずけつくしてくれはった華叟和尚が逝ってしまわれた。
謙翁、華叟と二人ものかけがえのない師を失われることとなった一休。この時はさぞかし、いろんなことが頭の中を駆けめぐったことやろな、けど一休のことや、きっとこう考えられたと思います。「枕辺にいることは出来なかったけど悔いなどない、和尚もそんなことを望んではおられなかったろう、禅道を歩くものはみな天涯孤独なものや。けどやっぱり寂しい。祥瑞庵の門を叩いた時、わずかに言葉をかわしただけで心が通じおうた師やった、純禅の奥義を教えつくしてくれはった師やった、老いるということがどういうことなのかを教えてくれはった師やった、十数年も一緒に暮らした師やった、寂しないわけがない。けど、今の私は違う、謙翁和尚を失った時みたいに我を忘れたりはせん。今の私の心の中は、嗣がれてきた純禅の奥義をさらに極めよう、我が心のおもむくままに歩もう、そして善と悪のはざまで迷道する人々に、正しく生きる力と勇気を与えよう、そんな思いでいっぱいなのだ。今の私に恐れをいだかせるものは何もない、湖をわたる風のように、清々しく生きるだけや。」
葬儀を終えられた一休は、修行をともにした皆とも別れ、新たな決意を胸に一笠一杖の巡錫の旅へと堅田の町をあとにされるのでした。
一休は足かけ13年を堅田で暮らされたことになりますけど、その間に一休という禅僧の土台が出来上がったんやな、ということがこの本を読んで分かってもらえたんやないかと思います。欲さず、へつらわず、偽らず、純粋で、どこかとぼけているところがあるかと思えば一方で、権力をふりかざす者、それにおもねる者、出世主義や悪徳にはしる者をこらしめる、というのが一般的な一休のイメージやと思いますけど、そんな英気豪邁なパーソナリティーは、堅田での苦行の日々のなかで確立しはったもんやと思います。
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