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この頃ということですけど、一休は村田珠光(1422年・応永二十九~1502年・明応十一)という人物とたびたび交流の機会をもたれたと伝わります。村田珠光という人は奈良の人で、11歳の時に奈良称名寺に入られますけど20歳で還俗、その後一休に参禅されました。当時一休は、明庵栄西そして大応国師を経て伝わる「茶の法」を体得しておられ、入門した珠光にそれを伝授し「茶禅一味」の境地を開かせたといわれてます。後、珠光は「侘び茶」の作法を完成させ日本茶道の創始者となられました。その珠光の作法を受け継いだのが千利休で、利休のそれは宗旦へ、そして宗旦四天王へと伝わりました。
その四天王の一人に茶博士として知られる藤村庸軒(1613年・慶長十八~1699年・元禄十二)という人がおられます。庸軒は、江戸時代の初めの頃、堅田に茶の湯をもたらした人で、堅田にある居初家の茶室「天然図画亭」は、弟子であった堅田の豪農北村幽安とともに造られたもんです。庸軒56歳頃、幽安32歳頃です。

北村幽安(1649年・慶安二~1719年・享保四)という人は、庸軒の茶の湯を堅田に広め、定着させるとともに元禄時代の食文化を彩った人です。堅田浦の西ノ切(現在の神田神社辺り)に生まれ、通称を「左太夫」政従あるいは道遂といい、一世の通人としてきこえた人物で、本福寺の千那とも俳句を通じて親交があったようです。幽安の名を高めた要因の一つに、特別な舌の持ち主やったことがあげられます。『新選包丁梯』という書物に「物の味を知ること海内の一人者。なめれば魚肉、きのこ、野菜、木、竹、水、石などの出所の善悪分かつこと神のごとし」とあります。また、割烹にも才覚を発揮しはりました。鮒に醤油、味醂、酒を合わせたつけ汁をしみ込ませて焼く「幽安焼き」(佑庵焼き、幽庵焼き、とも書く)や「幽安菊」(食用菊)を考え出さはりました。

1480年(文明12) 87歳
自作の詩をまとめた『狂雲集』を著わす。
弟子の墨齋が彫った木像に、自分の髪とひげをぬいてうえる。

1481年(文明13) 88歳
病気が悪化、12月21日卯の刻(午前5時頃から7時頃までの間)
弟子や森女にみとられ酬恩庵で示寂。このところを『年譜』では次のように書き残されている。

『・・・10月1日、謔がまたおこり、3日に謔を除く薬を飲んでなおった。しかし衰え疲れて喘ぐ様子は危うく見えた。19日、江州の刺史がやって来て相見したが、その対話ぶりは平常と変らなかった。11月7日、危篤状態となり、飲み物も口に入らなくなった。21日、卯の刻、心しずかに、ちょうど寝るようにやすらかに坐禅をしてなくなった。』これに続けて次のような文章で年譜は締めくくられている。

『師のひととなりは、平等の慈悲でものにのぞみ、身分の差別をしなかった。商売人や幼い子供にも粗末な待遇をせず、側近の僧や門下の弟子さえ古なじみとしなかった。子供が鬚をひっぱっては馴れしたがい、小鳥や雀は手の上で餌を食べた。恵み助けることを喜び、もらう時はもらい、与える時は与えた。怒れば罵り、ひそかに鞭撻し、ひそかに鍛錬した。しかし、たとい一箇半箇の優れた後継者を得ても自分の法は必ず断絶しようと平常から心に誓っていた。まして諸方の僧侶が獣を飼ったり鳥を飼育するような家風を、痛烈に憎んだのはいうまでもない。そして修行者に対してはますます辛辣を極めた。また参禅しようと欲する者があれば、「私はもう耄碌した」といって相手にしないが、然るべき人に逢えば、百種もあろうかと思われる手段を設け、巧みなたとえや古事の引用などは、ちょうど常山の蛇が時に応じて首や尾で攻撃するようであった。これ等は(師のはたらきの)ほんの一端であり、もし師の大機大用を具体的に述べようとするならば、たとい南董(すぐれた記者)のような坊さんであったとしても、私はおそらくそれを一筆たりとも記録することはできぬであろう。このようにいう。』

「須弥南畔、誰が我の禅を会(解)せんや、虚堂来るも、半銭に直(値)せず。」

これは、一休の遺偈(辞世の言葉)です。言われていることは、「日本中さがしても、私の禅を理解する者はおらぬ。いま師の虚堂が現れたとしても、何のたしにもならぬ」ということです。おそらく祖師(虚堂)はもとより、大応、大灯、徹翁の苦難を忘れて俗権に汚れている林下への批判をこめられてのものと思いますけど、さすが一休を思わせる何とも豪気な捨てぜりふです。