堅田観光協会トップ

森女の消息については『年譜』では一切ふれられていません。ただ元禄時代に、風狂子(磯上)清太夫という人が著わしたといわれる物語本『一休和尚行実記』に『われは(森女)丹後の国、いねの庄の生まれにして、この世にいでたる日より盲いてあり、陽も月も花も見ることなし。ひたすら闇夜を生き来りしも、いまだ安心つかまらず、習い歌、謡ものなど門付けいたしてなりわううちに、ある時はけもののような男にもてあそばれ、ある時はやさしい野良びとに手をひかれて旅を続けているうちに、はや三十路の坂をこえぬ・・・』とあります。

森女は美しい人でした。それも一休がいわれるには、絶世の美人やったようで、『狂雲集』にはその美しさをたたえた詩をいくつものせておられます。その中の一つに次のような詩があります。昼下がりの庵、一休のかたわらでまどろむ森女をうたって、『一代風流の美人 艶歌清宴曲 尤も新たなり 新吟腸断つ 花顔の靨 天宝の海棠 森樹の春』。

「森よ、おまえの寝姿の何と美しいことよ。じっと見つめていると、おまえのあの素晴らしい歌声が聞こえてくる。その声のなまめかしさと頬にうかぶ愛らしいえくぼの影に、私の胸はいまにもはりさけそうだ。森よ、おまえの美しさは、かの天宝の海棠のようだ」と。

一休にとっての森女は、風狂の極致に立たせてくれ、反逆と孤独に生きて来て、いま老いさらばえる身に、慰めと新しい生命力、創造力をよびおこさせてくれる源泉やった。また森女にとっての一休は、これまでの哀れな道のりを忘れさせ、愛されそしてそれに応えるという喜びを与えてくれる人やったんではないでしょうか。
心をさらけだしての二人の暮らしは、さぞかし深く安らかなものだったことでしょう。

1469年
(文明1)
76歳 応仁の乱の戦火が酬恩庵にも及びはじめたため、住吉大社の松栖庵に移り住む。(蓮如、越前の吉崎に道場を建立する)
1474年
(文明6)
81歳 後土御門天皇より大徳寺仏法の中興の祖として大徳寺第
四十八世住持となるよう詔勅が下るが、応仁の乱後の堂塔の再建には力を注いだものの、ほとんど寺には住まず酬恩庵にもどる。