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周建が純禅を求めようとして西山西金寺の謙翁宗為和尚へ参禅されたのは17歳の時です。謙翁和尚という方は『年譜』に『関山(関山慧玄)の宗旨を西金寺で称揚していたが、門を閉じて誰も寄せつけず、その宗風は孤高嶮峻で通っていた』と書かれてます。そんな立派な和尚がおられる西金寺でしたけど、そのたたずまいというたら、ぼろぼろで今にも壊れそうな貧乏寺でした。それやったら、何も好きこのんでそんなとこへ行かんでも、他に立派なお寺がなんぼでもあったやろと思いますけど、周建の考えはまったく違ってました。修学に燃える周建は、建物が立派とか朽ちかけてるとか、そんなことはどうでもよかった。今の自分にとっては、何も欲さずひたすら禅道を行く謙翁和尚こそが唯一、師と仰げる人であって、その師そばで学ぶことが出来るだけでよかった、他に何ひとつとして必要なものはなかったんです。

あらためて禅門の入口に立たれた周建は、貧しさの中での修行を喜びとするかのように、純禅の道理を求めて歩きはじめられました。食うや食わず、孤独にさいなまれながら、ただひたすら坐りつめ、自分との戦いにあけくれる日々。けど、その繰り返しは周建をみるみる本物の修行僧へと変えていったんです。季節がふためぐりする頃には天竜寺や建仁寺にいた頃の周建とは別人のようでした。そしてもがき苦しむ日々を送られ3年が経ったある日のことです。室へ呼ばれはった周建は、謙翁和尚から思いもしなかった言葉をいただかれるのです。


1413年(応永廿年癸巳)
『師20歳。ある日謙翁和尚が師にいわれた。「私のたくわえ(法財)はもう全部お前にあたえた。しかし私には印可証明がない。だからお前を証明しないのだ。」』

つまり『年譜』のいうところは、「周建よ、お前はわしの教えを学び尽くした。よって、すぐにでも印可状をもって、そのことを証明してやりたいのだが、いかんせんわしは印可状を持ってはおらん。だから証明してやることは出来ないのだ」と、謙翁和尚が言われたというのです。なぜ謙翁和尚は印可状を持っておられなかったか。それは以前、妙心寺におられた頃、師の無因宗因和尚からの印可状を断られたからです。(謙翁という名は印可状を謙遜してもらわないものと思った無因和尚が名付けたと伝わる)。理由は、印可状をさずかることで寺に住むようなことになるのを避けたかった。どうしてかというと、当時の禅寺が余りにも華やかさを好み修業の厳しさを失っていた、そんなところには居たくないと堅く思っておられたからです。また、印可状が僧侶の値うちを決めるもんではないとも考えておられたようで、貧しい西金寺に移られたんもそういった理由からやといわれてます。

当然ながら当時の周建も、印可状をさずかるなどという気はさらさらなかったと思います。けど謙翁和尚は、頑張ってきた周建を認めてやりたかった。それと「純禅の灯を託せるのは、こいつだけだ」ときっと思われたんでしょう、素晴らしい贈り物を周建にさずけられるんです。それは「宗純」という新しい道号でした。

周建から宗純へ。このことは、青春の日々のすべてをかけて、自分の進むべき道を探し求めて来た周建にとって、今やっと純禅の道に立てたことを実感された瞬間ではなかったかと思います。


謙翁和尚の教えを嗣ぐ喜びに満たされはった宗純は、これを機にさらに厳しい修行へと向かわれました。けど、翌年のことです。心酔する謙翁和尚が亡くなられたんです。それは、宗純の身体から今までに蓄えてきたすべての力を抜き取っていきました。残ったのは前途も何もない恐ろしさと例えようのない悲しさだけでした。『年譜』に『師21歳。12月に謙翁和尚がなくなった。葬式をしようにも金がなく、ただ心だけで喪に服するのみであった。』と。何とか近所の人にお金を用立ててもらって、葬儀を済まされた宗純は、今にも拉げそうになりながら西金寺を後に、冬の都の底冷えの中を清水寺から峠を越えて大津の宿場へ、そして石山寺へとさまよい歩かれ、やがて瀬田橋の辺りにたどりつかれた。が、何を思われたか瀬田川へ身を投げようとされたんです。と、そのとき、男の影が現れ「千菊丸様、今死ねばそれこそ親不孝というものではございませんか。悟りの道は悠然たるもののはず、そのようにあせってはなりません。」と宗純の身体を抱き止めはった。その声の主はお母さんの使いの者であったといいます。力強い声に、われにかえられた宗純は、憔悴しきった身体を引きずり、一旦お母さんのもとへ帰られるのでした。

青春時代、人はみんな純粋で多感だったはず。けど、そんな素晴らしいことも、過去からの損得を規範として形作られ、立派なたてまえや体裁におおわれた現実社会は、そうは簡単には認めようとしません。そやから、多くの若者たちは非常な圧迫感のなかで自分の力と周りとの心理的コントロールに苦しみながら青春時代を送ります。おそらく宗純もそうだったかもしれません。だから現状からの脱却を図ろうともがく宗純は、頼れる師を求め、勉学にいそしむことで自分を鼓舞し、あえて苦難の道を選び、孤独と必死に闘われた。けどそれは、慕い尊敬する人を亡くすことでもろくも崩れ去ろうとした。あれほど何ごとがあっても揺るがない絶対の信念と誰にも負けない情熱を持っておられたはずやったのに…。

なんともやるかたない思いでいっぱいになりますけど、これが京の都の宗純のエピローグだったんです。